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初めて公式な大伴姓に繋がったので、ほっとしております。
しかし何故、「内閣文庫」や、「東大史料編纂所」といった権威のあるところに所収されているにも拘わらず、愛媛県史は無視し続けたのでしょうか?
「伊予史談会」所収の大野系譜ばかりで、中世の大野家を語っているからちぐはぐな感がぬぐえなかった。しかも「大洲史談会」も早い時期に気がついているのに無視している。
裏をとる調査をしなかったから自信がなかったのかもしれない。
大野啓一さんの話は以前、管理人さんのHPで読まさせて頂きまして、異体字が刻された石に邪気を感じました。
大野直之は稀代の悪党のように四国では言われてますが、屋代島大野系譜は、兄直昌が竹原で死んだ時、生きながらえていて、密に兄の墳墓を弔いに行くとき、途中で難破して死んでしまったと、好意的に記している。屋代島大野系譜は一環して、直昌ら弟達を好意的に書いてある。弟直昌に追い出されたとは決して書いてはいない。大野直秀を悪く書いているのは、上川村大野系譜とそれを写した大野系譜のみである。しかも上川村大野系譜の整理者
大野直尚は江戸中期にわざわざ屋代島西屋代の大野家を来訪している。
この旅日記があるはずなのだが、まだ見ていない。
大野憲さんの所にはないらしい・大野ミツコさんの後継者がもっているみたいなのだが、よく分からない。露峰の貞一郎さんのとこかもしれない。小田・上川に伝わるものなのだが。
久万ではない。
大除城主大野直昌が目立つので久万町が中心と思っていたが、久万町からでてくくのは比較的新しい史料ばかりで、今回のように、戦国時代以前の史料は、最初の下向の地大津(慶長以降大洲)八多喜や、屋敷を構えた宇津、一族が分散始めた菅田、土居家に久万入道討ってくれと頼まれ、移り住んだ小田・土居あたりから出てくる史料のほうが鎌倉・室町の記述が
詳細である。久万高原町より、大洲市の古文書をひっくりかえしたほうが、より正確と思われる。
次は「笹が峠の合戦」が史実であったこと、を立証したい。
幸いにも明和7年の大洲・新谷藩大絵図に大野ケ原の古戦場一丁原の記述を見つけたので、
天正年間のこのあたりのホノギを丹念に探していけば、会見場所や双方の待機場所、奇襲を受けた場所、戦死者を葬った場所が特定できると思っています。
今の地図では全く参考になりません。
その次が余技みたいなもので、赤穂浪士の討入の武器の準備をした大坂の義商・天野屋利兵衛が、後直昌の妻となった、宇都宮家の娘が一条内政の胤を宿したまま、直昌に稼いで
大除城で、生んだ子、直常の孫、直治であることを証明したい。
忠臣蔵研究者には無視されているのだが、かれらは偏狭である。
これは語れば長くなるのでまたの機会に・・・
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