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調べていけばいくほど、「予章記」も?で「予陽河野家譜」も?でましてや「小松邑誌」や
「伊予温故録」になると???の連続になってしまった。
「予章記」も色々書き加えられ、南明禅師をして「越智・河野は色々書かれておりわけが判らない」と思案投げ首である。この方は正岡・黒川に縁深い方であるが、彼より以前に色んな流布本や、家伝と称す家譜が存在し、何が真実なのかわからなくなったのでしょう。
出自を荒唐無稽な紀元前に求めたから、後世の子孫が色々思いあぐねた結果、「門外不出」の文書を書き溜めたいった結果が、いろいろな、「予章記」や「河野家譜」ではなかろうか?「太平記」から引用したりして書き進めた結果どこまでがオリジナルかわからなくなった。
家譜は色々書き改めても他人には知られないが、一族を示すトレードマークの家紋や幕紋は
勝手に変えられない。
越智家の初紋とされる「イチスハマ」と「傍折敷三文字」は全く異なる。
河野系黒川家は「折敷三文字」紋を無理やりスハマが3つで「ミツスハマ」と後世の人は伝えながら、家譜には正しく「三州浜(ミツスハマ)」紋を図示している。
越智姓寺川家紋も全く同じ「三州浜紋」である。
河野一族とされる得能家も「折敷縮三文字」は使用していない。
やはり、越智と河野は直接関係がないのではないだろうか?
川岡氏がいうように、中世の伊予は諸族の連合体の上に微妙なバランスで河野家が乗っていたのではなかろうか?
そう考えると辻褄が合う話が多い。
天正末期の状態を江戸時代において記録を頼りに編集しなおした結果、今岡、正岡、平岡、黒川、得居、能島、因島、来島、忽那、・・・までの幕家を18家と称して親族と言い伝えてしまったのではなかろうか?
ついでに、大伴姓大野家まで河野支族と書き残してくれている。
これらは、得能家が伝える文書にあるから、後世の人が信じてしまったのではなかろうか?
「河野家分限録」においても記憶を頼りに書いたと思われ、河野家滅亡後の江戸時代の記述が書き込まれているので、一級の史料とは言いがたい。
同様な例が「能島村上分限帳」にも言える。
江戸時代初期に書かれているが、中身は天文・天正時代の話である。
川岡氏が一級史料としている「建武三年の手負い注文」も予州河野宗家に伝わったものではなく、長州河野家が江戸時代の中期に藩主毛利公に家に伝わる書付を謄写したとされるものである。この書付は大野忠直なる人物を記録しているので、予州では大野の先祖と勝手に
決め付けているのが腑に落ちないので原本を探しています。
話は変わりますがこの文書の「設楽の若党大野忠直」の表現はなやましく、大野の前姓冨永と設楽は三河の設楽と冨永の庄で関係深く、三河の冨永もこの比叡山の合戦に参加している。叉設楽は後西園寺氏と同族となっており、伊予ともからんでくる。
よって、色々な伝聞がごちゃ混ぜになった可能性が高い。
家譜でなく家紋で大野家を検証すると、どうも正しくは、
大野の遠祖、大伴家が大陸から持ってきた「木瓜紋」に冨永時代に、足利尊氏の九州の多々良浜の合戦で軍功を上げ、足利家の二引両を貰ったとされるから、合作の「木瓜二引」紋と
して引き継がれ、現在に至っていると思われます。
さて、今日はこの辺で・・・
イメージが湧かないと思いますので「ゆづき」の「談話室」と図は「喫茶室」を参照願いま
す。
そうそう、「HPの竹原の通直の墓」は墓ではなく「供養塔」と思います。
墓は山崩れで下の田圃のどこかに埋まり、未だに行方不明です。
大野直昌の墓も田圃の中か、どこかの家の石垣になっている可能性が高いらしい、
南無・
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