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子規の庭

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 8月22日(金)07時04分39秒
編集済
  柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺
明治28年秋、28歳の子規が東京に帰る途中、奈良に立ち寄った時の句ですが、
その時に泊まった「對山樓」で詠ったのが「秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」という
句でした。その旅館の跡地の一隅に、当時からの柿の古木が現存していたことが判り、
子規を偲ぶよすがとして、「秋暮るる」の句碑を建て、その古木を中心に子規が好んで
詠んだ草花を植えた庭園が、昨年秋に完成していたことを、知りました。「子規の庭」です。
子規のお孫さんに当たる明氏(庭園設計家・樹木医)が、「子規の庭・保存会」の依頼で
手がけられたもので、ぜひ一度、訪れたいものです。HPを添えますのでご覧ください。
http://shikinoniwa.com/index.html
 

63回目の8月15日

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 8月15日(金)07時25分19秒
  熊蝉が朝から賑やかに合唱する。練馬のこのあたりは古い木立が残っているので、夕方の
蝉時雨なんぞ、北九州で送った少年時代を思い出させてくれます。
8月15日です。灼ける夏の日に焙られながら聴いた玉音放送。まわりの大人たちが
泣いているのを、嘘っぽく感じとったのは、あのころのぼくが少しは現実を見つめる
目を持ちはじめていたからだろうか。何しろ、まわりは空襲で焼けただれた「八幡の街」。みんな、ホッとしているじゃないか、と。
夜毎の警報サイレンに、防空壕に逃げ込んだ日々。思い出すだけでもおぞましいあのころの記憶。そこから解放されんだよと教えられた「8月15日」。
あれからもう63年が経ったのか。まだまだ元気だ。日々を大事に、送らせていただこうか。
 

粟井近辺のご紹介です

 投稿者:渡部 進治  投稿日:2008年 7月31日(木)11時20分36秒
  まだ御会いした事はないのですが、粟井近辺で熱心に地元整備に取り組んでおられる方のHPを偶然見つけましたので下記ご紹介申し上げます。
http://takunami.hustle.ne.jp/index.htm
 

正岡克仁様へ御礼です

 投稿者:渡部 進治  投稿日:2008年 7月30日(水)22時06分27秒
編集済
  正岡克仁様
お願いいたしておりました「正岡一族の本2冊」早速にご手配下さり誠に有難うございました。又当日の「愛媛新聞」外も、わざわざ同封下さり重ねて深謝申し上げます。第二回目が盛況に終わりましたが、事務局の事後処理が大変だと存じます。お疲れの出ませんよう念じております。又、今回を機に機会を得ましたら度々帰郷したいと思っておりますので、正岡会始め北条でのイベント等がありましたら、是非当「正岡ワールド」でお知らせ戴けると幸甚です。貴兄様のメールアドレスを存じませんでしたので、当ブログで失礼致しました。
 

上野三嶋神社創建は江戸開幕前

 投稿者:呑舟  投稿日:2008年 7月26日(土)09時09分38秒
  三嶋神社創建は江戸開幕前と伝えられてますから、寛永寺を作るときにほかの大名屋敷を移転させて作るのですが、由緒が伝えられていたのか、寛永寺境内に取り込まれた形で残ったものと思われます。寛永寺関係文書に記述が残っているとにらんでいます。
今の上野駅と鶯谷までの鉄道用地はすべて、旧寛永寺11坊の跡に作られています。

江戸後期の絵図にはそのような形で書き込まれています。
興味がおありなら、ゆづき談話室の左上の「喫茶室」をクリックしてみてください。
絵図を投稿してあります。

最近、ひょんなことから、講談社でもお世話になっているらしい本山一成(漫画家)氏のHP「黒田武士の館」を見つけ、筑前黒田家に「河野崩れ」以降仕官した大野勘右衛門の消息をたづねたら、福岡市金竜寺に先祖伝来の墓があることが分かりました。
寺に電話すると相続(約20年前)のあとから音信が途絶え、現在連絡がとれず、とのことでした、墓は寺に多大な貢献(元大檀那)をしてくれた家なので、寺できちんと管理している
とのことで、きれいでした(但し写真、)
驚いたことに、予州剣城主、黒川五右衛門通貫が下城ののち、天正14年正月に予州を離れ
これも黒田家に仕官がかなうのですが、その子孫が立てた曾我部家(黒川は秀吉にに睨まれるのを怖れたか、母方の姓、曾我部に改姓、これは、大野隆直が冨永伝兵衛、河野末が築山に改姓した理由と同じか)の墓、大野家の墓の傍に仲良くありました。
こちらは写真で見る限り現代墓ですが、こちらの子孫も音信途絶とのことでした。
墓には河野家支流を示す家紋「折敷波三文字」がきざまれていました。

大野家が福岡に足跡があることが分かりましたので、城下絵図を半日かかりで捜したところ、現在の日銀福岡支店と中央郵便局と前の国道に変化した大野家屋敷(1700石)が見付かりました。
この絵図には、これまた家紋として「折敷波三文字」が極彩色で書き込まれていました。
「屋代島大野家譜」によると大野直秀(後、大内義隆から一字を貰い、隆直と改名、大除城主直昌の兄)が、来島村上系の家司を伴い、黒田家に行き、筑前黒崎で病死するときに大野の名跡をこの家司にゆずったとあります。
よってこの家司、村上左馬右衛門(村上系図に記載あり)は苗字を大野とし家紋を折敷波三文字とし、通字を村上家伝来の「吉」としてそれぞれの顔を立てた形で、黒田家に報告してあります。なかなか大変です。
 

着眼点

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 7月26日(土)07時43分4秒
  呑舟さん、しばらくです。相変わらず、そのユニークな着眼点におどろかされます。
根岸子規庵のまわりが、かつての加賀屋敷だったのは知っていますが、三嶋神社に
かかわる「残しもの」があるとは知りませんでした。子規の著述をすべて読んだわけ
ではないし、そうした視点も無かったので、子規が遠祖ゆかりの神社について、認識が
あったのか、どうか、全く気がつきませんでした。
子規・正岡家の出自が「寺路」時代、波止浜にあったことに注目し、いま、それを調査
しているところです。ゆずき談話室はなにかの折りに覗いています。
 

賑やかになりました

 投稿者:管理人  投稿日:2008年 7月24日(木)20時17分58秒
  第2回正岡まつりも無事終了。そのとき足を運んでくださった諸兄からの
当掲示板へのアクセスですっかり賑やかになりました。多謝。
心新たに、「正岡ワールド」の充実に励みます。よろしく!
 

我がブログでも御紹介させて頂きました

 投稿者:渡部進治  投稿日:2008年 7月24日(木)17時23分9秒
  猛暑が続いておりますが、お疲れは出ておられませんでしょうか?。失礼ながら御世話人始め関係者各位は御高齢者が多いので心配です。特に今年は猛暑の炎天下でしたので余計な心配を致しております。出来れば次回は春か秋のシーズンの良い時期で、地元の祭りやエベントのある時にと念じております。この度小職も関係する「日刊ブログ新聞ぶらっと」に下記掲載させて頂きましたので御高覧下されば幸甚です。皆様のご自愛を心から祈念申し上げご紹介とさせて戴きます。神戸・渡部。http://www.burat.jp/mypage/blog/entry_disp.200609261619-1001140.200807241629-5000029  

おたづねします

 投稿者:呑舟  投稿日:2008年 7月24日(木)09時36分44秒
  上野の正岡子規の子規庵近くに鎌倉期の河野館の近くに三島神社を建立し、今、日暮里から上野に入る常磐線の左側のラブホテルの一角にコンクリート土台の「元三島神社」がありますが、子規はこの神社が遠祖ゆかりの神社と認識していましたでしょうかかね?

近くに2つ三島神社がありますがすべて伊予河野の由緒を持ち、神文は「折敷三文字」で現神官も二社は河野です。
江戸末期の絵図のも寛永寺境に食い込む形で「三嶋神社」が見えます・

祭り時の神輿にも、なつかしい「折敷三文字」が入っているのですが?
 

ショットを写された方のお名前を間違えました

 投稿者:湘南の正岡です  投稿日:2008年 7月23日(水)17時12分31秒
   OMEGAさんありがとうございました。  

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